青春シンコペーション


第3章 鬼教授が家政夫に!(2)


その日は3時から子ども達のレッスンがある日だった。
「昼食は簡単にパスタで済まそうかと思っていたんですけど……」
美樹が済まなそうな顔をした。
「いや、構わんでください。といいますか、さっき丁度ピザ屋の前を通りかかったらあまり美味そうだったものだから、つい注文してしまったんですよ。もうそろそろ来る頃だと思いますから、みんなでいただきましょう」
黒木の言葉に皆が唖然とした。

「ピザ、お好きだったんですか?」
井倉が思わずそう訊いた。
「ああ、昔、ヨーロッパに留学していたことがあってね。イタリア人の友達とよく食べに行ったもんだよ」
「へえ、黒木さんはイタリアに行ってたですか?」
ハンスが訊いた。
「いや、行ったのは旅行だけ。住んでいたのはベルリンさ」

「それで、ハンス先生とお知り合いに?」
井倉の言葉に黒木は軽く右手を振って言う。
「いや、知り合ったのはそのあとなんだが……」
そう黒木が言い掛けた時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「お、来たようだね」
黒木が急いで玄関に向かう。
「あ、お金は私が払いますから……」
美樹が慌ててそのあとを追った。

「ふふ。黒木さんって子どもみたいに可愛らしいところあるんですね」
ハンスが笑う。
「そうですね」
井倉も軽く微笑した。が、内心では、ハンスの方がよほど子どもっぽいのにと思った。
(でも、そういう無邪気さがあるから、二人ともすごいのかもしれないな)


美樹がパスタを盛り付けた皿を運んで来た。
「ほんとはこれだけじゃ足りないかと思ってたの。でも、ピザもあるから十分ね」
「わあ、美味しそう! 今日はイタリアンですね」
ハンスも喜んで言う。
「では、早速いただきます」

「あとで、デザート持って来るわね」
美樹が飲み物を注いで言った。
「ああ、私も手伝いましょう。何しろ今日から私はこの家の家政夫ですから……」
黒木の言葉に井倉が苦笑いする。

食事の間、黒木の留学時代の話で盛り上がった。
「その小さな劇場で、はじめてのリサイタルを開いたんだ。まあ、演奏者が無名の日本人だったからね、大成功とまではいかなかったが、とてもフレンドリーな雰囲気のいい劇場だったよ。日本とは違って、演奏者と観客との距離がすごく近いんだ。演奏中でも良ければ拍手してくれるし、一緒に歌い出すこともあった。そして、悪ければ容赦ないブーイングが起こる。彼らは心から音楽を楽しんでいたと思う」
黒木はうれしそうに語った。

「ヨーロッパではクラシック音楽がこんなにも庶民の暮らしに馴染んでいるんだと羨ましかったな」
「どうしてですか?」
ハンスが訊いた。
「日本では、まだクラシックっていうのは敷居が高かったからね。観客もみんな物音立てずに緊張して聴くものだと思っている」

「でも、最近では、ドイツでもクラシック音楽を聴かない若い人も増えていますよ」
ハンスが言った。
「そうなのかね?」
「ええ。ベートーヴェンやショパンなんて日本人の方がよく知ってるんじゃないかな」
デザートの葡萄を一つ摘んでハンスが言った。
「そんなもんかねえ。もっとも、私が最初にドイツへ行ったのはまだ壁が存在してた頃だったからね」
黒木が懐かしそうに目を細めて言う。

「井倉も若いうちに外国へ行ってみた方がいいぞ。日本の中だけでは決して見えないものが理解できるようになる。それに出会いもあるしな」
井倉もいつかは外国に行きたいと漠然と考えていた。しかし、自分が留学するというイメージがわかずに、返事を躊躇った。

「実はな、今の奥さんと最初に出会ったのはベルリンなんだ」
黒木が告白する。
「そうなんですか?」
美樹が相槌を打った。
「そのリサイタルを聴きに来たですか?」
ハンスが訊いた。
「はは。実はそうなんだ」
黒木が照れ笑いするように頭を掻いた。

「それじゃあ、奥さんもクラシックがお好きだったんですね」
井倉が言った。
「いや、それがそうでもないんだ」
黒木が否定する。
「え?」

「彼女は技術畑の人間でね。たまたま友人に付き合って来ただけだと言うんだ。だから、自分にはクラシック音楽のことなどまるでよくわからないと……。私の演奏についてもお世辞にもうまいとは言ってくれなかったんだ。それどころか、あまりに退屈だったので眠ってしまったと……」
「演奏者に向かってですか?」
美樹が驚いて訊く。

「そうさ。それで、私も思わず笑い出してしまった。あまりにあっけらかんとしているのでね。そこで訊いてみた。私のピアノは子守唄としてはどうでしたかと……。そしたら、彼女は澄ましてこう答えた。ええ、不眠症にはなりそうもありませんわ、とね。それで、はたと運命を感じましてね、それなら、一生、彼女のために子守唄を弾いてあげようと……」
「まあ、何てドラマティック……」
美樹がうっとりするように黒木を見つめた。

「プロポーズしたですか?」
ハンスが訊いた。
「まあ、そういうことになるかな」
黒木はうれしそうだった。井倉は黒木のそんな表情を見るのははじめてだった。ずっと怖いだけの先生だと思っていたが、黒木もまた普通の人間と同じように恋をするのだと知って少しだけ親しみが持てた。
「だからな、井倉、おまえも頑張れよ」
いきなり黒木の大きな手が背中を叩いた。

「え、僕ですか?」
「そうだ。うじうじしていてもはじまらん。自信を持って挑めば向こうから近づいて来るものだ」
そう言って黒木は笑った。
(それって彩香さんのことを言ってるんだろうか。それとも、コンクールの……)
井倉はじっと恩師の横顔を見つめた。何故だか鼓動が速くなる。汗ばんだ手を握り直した。黒木はきっとコンクールのことについて言ったのだ。なのに、それを勝手に彩香のことを言われたと錯覚してしまう自分が妙に恥ずかしかった。


食事が済むと食器の片付けをすると言って黒木が台所まで付いて来た。
「今日は少しですから、わたしがやりますので……」
美樹が言った。
「いや、それでは何にもなりません。ぜひ私にやらせてください」
黒木が皿を取り上げて言った。
「ところで、洗剤はどれくらい皿に付ければいいんでしょうか?」
彼は本当に何も知らなかった。家事はやったことがないと言うので仕方がないが、少しばかり厄介なことになったと井倉と美樹は顔を見合わせて思った。

不意にピアノの音が聞こえた。キッチンにいた三人が同時に顔を見合わせる。弾いているのは無論ハンスだ。彼は子ども達と歌うための讃美歌や童謡を選んでいた。
(そうか。ハンス先生だってピアノは必要なんだ。僕がずっと独占していたら申し訳ないや)
井倉がそんなことを思っていると、黒木が大急ぎで皿を洗い終え、手を拭くのももどかしそうにそそくさとリビングへ向かった。井倉もすぐにそのあとを追う。


二人が入って行くと、ハンスはじっと鍵盤を見つめていた。
(何だろう? 雰囲気が違う)
井倉はハンスとそこに流れる空気の密度が変化していることに気づいた。

彼のいる空間だけが時代を越えた懐かしい西洋の時間を灯しているのだ。窓も絨毯もそのままなのに、何故か少し褪せた昔の空気を忍ばせていた。

その時、背後の扉が開いてすっと美樹が入って来た。彼女は黙ってピアノの脇のソファーに掛けた。それを瞳の片隅に捉えた彼。瞬間。そこにない筈の風が二人の間を満たすようにそよぐ。幻想のからくり時計が回り出す……。けれどその扉はまだ封印されたまま、恨めしそうに人形達が彼を見つめる。

ハンスはさっとその手を鍵盤の上に翳し、曲を弾き始めた。戦慄のエチュード4番……。その曲を……。

それは流れる風のように、あるいは渓谷を分かつ激流のように、もしくは回転する歯車の正確さで、彼は音符を切りそろえ、乾いた感情で曲を編んだ。

(すごい……。何て正確な音……。ともすれば狂気に沈んでしまいそうなのに美しい……。しかも鍵盤の間から覗く悲哀。それを打ち消し、交錯する光と影。あれは……葛藤する心の波……?)


曲が終わり、ハンスが立ち上がった。振り向いて笑うその顔はやはりいつもの彼だ。
「ふふ。どうです? 井倉君も弾いてみてください」
ハンスが言った。その脇で黒木は声も出ないほど感動し、目を潤ませている。
(弾いてみてと言われても、こんなすごいの聴いちゃったあとで、僕が弾くなんておこがまし過ぎる……)
鼓動の高鳴りが皆に聞こえるのではないかと思うほど井倉の神経は高ぶっていた。

「何も考えないで、ただピアノを弾けばいいんです」
ハンスはそう言うと美樹の隣に腰掛けて、彼女の背に腕を回すとその頬にそっとキスした。彼女は何も言わず、彼だけを見つめた。そこだけに吹く懐かしい風……。彼らはともに通じることのできる時間の向こうにあった。失くした時間を取り戻すように二人はじっと互いを見つめ合ったまま動かない。

(あの二人って……)
井倉はふっと彼らから目を逸らすと固く目を閉じた。閉じた瞼の奥で誰かがじっと彼を見つめている。

(誰?)
優しく繊細なその表情はどこか寂しそうだと思った。が、同時にそこに滾る炎のような情熱が光の強さに現れている。

――付いて来るかい?

彼が振り向く。
(挑発?)
誰だか思い出せない。しかし、井倉は何故かその人を知っているように思えた。
(君は……)

――弾いて!

逆らうことなどできなかった。
「でも……」

――弾かなければ、あの子は来ない

(あの子? 彩香さんのこと? それとも……。そもそも君は誰なんだ?)

――僕は何者でもない

そう言うとその影は消えた。
(何者でもないだって?)
納得の行かない井倉はあちこち見まわした。が、そこに影はなかった。

「どうしましたか? さあ、弾いて!」
ハンスが言った。時計の針は1時を過ぎている。

――弾いて!

それはハンスの声に似ていると思った。しかし、それはハンスではない。
(ならば誰?)
ハンスの髪を女が手櫛で撫でつけている。そんな彼女に彼も満更ではなさそうにもたれてうっとりとしている。
(美樹さん……?)
足元に転がった毛糸玉に2匹の猫がじゃれていた。二つの鈴の音。それは猫達の首に付けられている物だ。それが響き合って小さな旋律を奏でている。

「さあ、どうした、井倉」
黒木が言った。その声にはっとして井倉が周囲を見回す。ソファに座るハンス。そして、毛糸玉と猫達を抱いて出て行こうとする美樹の姿が目に入った。
(どうしたんだろう? 僕、昼間から夢でも見てたんだろうか)
「井倉」
黒木の声に彼は背筋を正し、弾かれたように弾き出した。一旦弾き出すと何も考えられなくなった。淡い光のカーテンが重なって揺れる。

風が乱反射して目を射った。
(痛い……)
その光は彩香の瞳に煌めくそれと同じものだと井倉は思った。

「はい。そこまで」
ハンスが言った。
「今、余計なことを考えましたね?」
ハンスに言われてはっとする。黒木も細かい部分を指摘した。
「途中からリズムが滅茶苦茶だ。16分音符をきちんと4つずつ揃えるんだ。それにスラーの位置に注意しろ。繰り返しのトップの音は終わりの音とスラーで繋がっているんだぞ」
(そうか。ショパンの曲にはそういうのがよくあるんだっけ……)
井倉は楽譜を見直して思った。

「それと、できれば、もっと指を高く上げて動かした方がいいですね。もっと指先で弾かないとリズムに追いつきませんよ」
ハンスも言った。
「はい」
井倉が返事する。

「さっき僕はテクニックだけで弾きました。だから井倉君も同じように弾いてみてください」
ハンスが言った。
「テクニックだけで……?」
(本当にそれだけであの美しい悲哀と狂気を出せるものだろうか)

ハンスの演奏は完璧なものに思えた。だからこそ、感動が伝わり、黒木が涙を流したのではないだろうかと……。しかし、黒木はそれを否定するように言った。
「ハンス先生の実力はあんなものじゃない。あれはコンクール用にわざと加工したものだ。わかるか? 井倉、その違いが……」
(コンクール用……? それじゃあ、彼が本気で弾いたとしたら、いったいどんな演奏になるんだろう)
井倉は信じられないと言う顔でハンスを見つめた。

「もし、井倉君が優勝したら聴かせてあげますよ。僕の本気の演奏をね」
彼はそう強気に言って微笑した。
「おお。それは何よりの賛辞だ。井倉、頑張るんだぞ。私もぜひ、ハンス先生の演奏を拝聴したいからな。すべてはおまえの優勝に懸ってるんだぞ」
黒木に肩を叩かれた。
(そんな……。僕の肩に乗せるには無理がありますって……)
井倉は困惑して二人の恩師を見比べた。

「とにかく、あとは練習あるのみです」
ハンスがにこりと微笑んだ。
「何も考えたりせず、心を無にしてひたすら弾いてみてください。少しヒステリックになるくらいで丁度いいです」
「はい。やってみます」
井倉がそう返事をすると、ハンスがきつく注意した。
「駄目です。やってみるじゃなくて、やる! でしょう?」
「はい。やります」
井倉はそう言うと曲を弾き始めた。その横顔を明るい午後の光が照らした。


そうして、井倉のレッスンは3時前まで続いた。最初はぎこちなかった井倉だが、大分指が動くようになって来た。ミスも少なくなり、リズムも安定して来た。まだ本番のスピードではなく、確実に弾き切ることができるよう、速度を落としての練習だった。が、その上達は目を見張るものがあった。


時間になると、子ども達が集まり始めた。いつもなら、井倉もそこに加わるのだが、今日は黒木に付き合って買い物に行くことになっていた。

「それじゃあ、先に衣類の方から済ませましょう」
地元のスーパーのエスカレーターを上りながら井倉が言った。本当なら黒木が自分の着替えや必要な物を調達している間に井倉が食料品などを買った方がよほど効率がいいと思うのだが、黒木が頑として自分も参考にしたいから付いて行くと言うので、仕方なく一緒に回ることになったのだ。

「紳士コーナーは4階ですから……」
「そうか。では、まず下着と靴下、パジャマと……。それにエプロンが要るな」
「は? エプロンですか?」
「そうだ。私も家政夫として働くのだからな。エプロンくらい身につけなければいかんだろう」
黒木は本気らしかった。そこで井倉は無難に答えた。
「そうですね。最近は男性用のも充実してますよ。お料理する人とか増えてますし……」
「そうか。それじゃあ、早速……」
知らない者達から見ると、二人は仲の良い親子のように見えたかもしれない。

黒木は出張や旅行に行く時も、あまり荷物を持たず、現地で調達する方が多いのだと言った。
「まあ、自分で準備すれば良いのだろうが、家のことは家族に任せっきりなもんでね。恥ずかしい話、どこに何があるのかもわからんのだよ。それに妻も仕事を持っているし、子ども達は当てにならないしね」
「それじゃあ、先生が家を離れてはお子さん達が寂しがりませんか?」
さり気なく井倉が訊いた。

「いや、もう立派な大人だよ。娘はまだ短大に通ってるが、息子は丁度ハンス先生と同じくらいの年でね。大分前に家を出たきりほとんど顔を合わせていない」
「そうだったんですか」
黒木の表情が曇ったので、井倉はそれ以上その話題には触れないことにしようと思った。

「ああ、ありましたよ。男性用のエプロン」
井倉が指さす。
「ん? これがエプロン? 何かイメージしてたのと違うんだが……」
ハンガーに掛けられていた物を見て黒木が首を傾げた。
「どんなイメージですか?」
「普通エプロンと言ったら、白くて下にフリルが付いているあれだろう」
真面目に言うので井倉は思わず吹き出しそうになるのを必死に抑えた。

「近頃ではいろんなタイプの物が出てるんですよ。色や柄もカラフルになりましたし、男性が付けてもお洒落なデザインになってるんです」
「ほう。そんな物かねえ」
黒木が感心したようにあれこれ見ている。
「おお、これなんかどうかね?」
教授は濃紺の地に胸とポケットにニンジンとピンクのウサギの刺繍が付いている物を自分に当てて見せた。悪くはないデザインだと井倉は思った。ウサギがもっと普通の色であったなら……。しかし、黒木はそれが気に入ったようなので、あえてこう言った。

「ハンス先生が好きそうなデザインですね。彼、ぬいぐるみとかも集めてるみたいですし……」
「ほう。そうか。なら、やはりこれにしよう」
「あ……」
言ってしまってからはっとした。
(そうか。黒木先生ってハンス先生のファンなんだっけ……。まあ、いいか。似合っていないこともないし……)

それから、二人は食料品や日用品などを買って帰った。
「今日は付き合わせてしまって悪かったな、井倉。貴重なコンクール前の時間だというのに……」
「いえ、僕も丁度アフターローションとか買わなくちゃだと思っていましたので……」
「そうか。なら丁度よかった。それに、今日はいろいろ勉強になったよ。卵やきゅうりの値段なんか知らなかったし、新鮮な肉や魚の見分け方とか、主婦の仕事ってのもなかなかどうして奥が深いものだってことがわかったよ」
黒木はいつになくやさしい表情で笑った。
(この人って、僕が思っているよりずっと……)


玄関に近づくと気配でわかったのかピッツァとリッツァが先を争うように駆けて来た。リビングからはハンスの弾くピアノと子ども達の笑い声が溢れている。
「お帰りなさい。荷物重かったでしょう?」
美樹もやって来て声を掛けた。先に上がった黒木が持っていたトイレットペーパーを受け取った美樹と楽しそうに談笑している。
(何だか本当の家族みたいだ……)
井倉は一瞬だけ寂しさを覚えたが、すぐにそれ以上の幸福に満たされて明るく笑った。